細面に白粉が塗せられ、元々色白の顔が光を帯びたかのように見えた。馬加好みの派手な衣装には、白すぎるほどの肌が似合うようである。旦開野は元々白粉が好きではない。肌に何かを塗るというのは息が詰まるようなことだし、何よりも空々しいからである。

(今宵は特に着飾って参れとの仰せだ)
 使いとして来た馬加四天王の坂田が、どこか間抜けた面をにやにやとさせのをふと思い出し、とても不快になる。機嫌が良かったのは宴で酒が飲めるからか、好色だからなのか、それとも同じ四天王でありながら競争相手だった卜部季六が突然変死を遂げたからなのか。
 その全てだろう、と旦開野は紅を差しつつ考え直した。
 金銀細工が施された、煌びやかな装身具。半分は馬加から、もう半分は息子の鞍弥吾から贈られたものであった。どれをつけようかと暫し逡巡してから、結局一際豪華な金の簪を幾つか選んで髪に挿すことにした。

 迷う必要もあるまい。何れにしろ馬加父子は今日ここで死ぬのだから。




対牛楼苧環唄




 宴の場に向かう途中、いつまでこの城にいるのかと好奇心旺盛そうな女中に呼び止められた。旦開野は微笑をつくってから、馬加様からお暇のお許しを頂くまでと答えた。他の田楽師たちは既に石浜を発っていたのに、旦開野だけは数十日も逗留を重ねている。噂好きの女中たちはそれが気になったらしい。
(それももう今日で終わりですと言いたい所)
 旦開野は微笑むつもりで目を微かに閉じた。それが彼女らには妙に浮世離れした表情に見えたらしく、余計に崇敬じみた眼差しを向けられる。
 遊芸に身をやつす女には、いくら美人だとしても彼女ら女中が憧れることはない。苦界に身を落とすこともなく、まともに働き生きてきた女中たちは、田楽師を羨むことはないのだ。
(わたしをそのような不幸に陥れた男)
 石浜城主にして千葉家家老、馬加大記。
 男の顔を思い出す度に、懐剣の重さを感じる度に、鼓動が大きく揺れる。迷いはないはずだが、ならば武者震いか……旦開野は漸く女中らに微笑み返した。
 女中たちはその笑顔に血の匂いを感じて背筋を強張らせた。

*****

「旦開野、只今参上致しました」
 正午から催されていた宴全体が、溜息に呑まれた。感嘆と驚嘆の沈黙である。
「美しいぞ」「素晴らしい」「本当に」
 少数の者が小声で囁きあった。旦開野は声のした方に微笑と軽い一礼を贈り、馬加大記・鞍弥吾父子に向き直って膝を折った。
「鞍弥吾様には、ご機嫌麗しゅう…」
 鞍弥吾は脂ぎって太い身体をしており、やはり父に似て上背はそこそこあった。旦開野と並ぶと、その姿は柳に対する樫のようで逆に滑稽であるように思われる。
 彼は今日の宴の主役である。五月十五日は彼の二十の誕生日に当たった。鞍弥吾は旦開野の挨拶に眦を下げてにたりと笑った。この男の父の好色をよくよく受け継いでいるのを知っている旦開野は、わざと声を立てて笑い返した。
 それから、その父である馬加大記に微笑みかけた。
(抑えなければ――――――)
 微かに息が上がったのがわかり、旦開野はそっと胸を押さえた。
「よう似合うとるのう、旦開野よ」
 大記は満足げに笑って言う。旦開野は白粉の下に昂然とした朱を昇らせ、得意の艶麗な作り笑いをしてそれをうまく隠し、徳利を持ち上げた。
「お酌し申し上げます」
 父子は気を良くしたようであった。二人は同時に杯を揚げて酒を求めた。何か冷たいものが喉を落ちていくのを旦開野は感じる。それと悟られぬよう、動作の一つ一つに執拗なまでに念を入れて、鞍弥吾の、そして大記の杯に徳利を傾けた。
 上等の酒が注がれていく様子に意識が集中した。同様に、大記は旦開野を目を細めて眺め遣る。何やら背筋を伝うものがあり、旦開野は目を閉じた。
「閉じるな」
 大記の低い濁声が耳に打ち響き、耐えきれずに旦開野は瞳だけ大記に向けた。
「其方の、狂ったように思い詰めた風の眼が好い」
「可笑しな事を仰せになりますね」
 朝焼けに照り映える花の如く笑いかけつつ、半ばの言葉を遮るように反論して彼女は酒を注ぎ終えた。彼を怒らせても何ら問題はなかった。
 だが、大記はそれ以上会話の内容を荒立てることがなかった。
「女子は内に熱を秘めるのが宜しい。其方もよく知っておろう」
「殿はわたくしをからかっておられる」
「ほれ、それこそ野暮と申すべきであろうが」
 大記の含み笑いに対し、旦開野はやはり美しい作り笑いで返した。彼は既に酔ってきたのだろうと思った。
 彼女は静かに頭を下げ、直ぐ元の立ち位置に戻って鼓を取った。鎌倉田楽一番の鼓が鳴らされることを察し、酔った家来や下働きの女たちもやんやの喝采を彼女に浴びせる。襖からは宴会場に立入を許されていない下男下女の眼が無数に覗いた。
「旦開野よ。ひとつ唄ってくれ」
「おおそうだ。それがいい」
 家来たちの声が上がり、旦開野は再び慎ましやかに立ち上がった。促されて前に出、大記に向き直って問うた。
「題は如何なさいます」
 この場合、歌の素養がない鞍弥吾は何も言わず父の方を見る。
 大記も面白げに薄く笑って応じた。
「宵を使え」
「畏まりました」
 酒宴の席には、既に泥酔している者も幾人か存在した。それでなくても会場は一気に静まり返ったのだ。
 旦開野は扇を打ち広げ、ゆっくりと顔を動かす。嘗て鈴の音と称されたその声は、おそらく今日で最後になるだろうと彼女自身は見越していた。
 葉の上に落ちた雫のように、声が微かに震えた。殺戮以前の興奮そのものだった。

 をだまきの散るやかなしな春の宵
     かなしぶ朝はたれがためなる


 一同は深とした。旦開野の舞に純粋に心動かされた者もあれば、声楽を嗜む者の中には、今日の旦開野は何が違うのだろうと首を捻る者もいた。
 桃と金で飾られた袖が輝き、夢幻を彷徨うかのように、旦開野はふわりふわりと身を翻す。歌いながら美しい翼を空に広げる迦陵頻伽のようだと称する者もいただろう。もともと凛とした瞳がどこか冷めた雰囲気を帯び、起きていた家来や女は非現実的な舞姫をただ呆然と眺めていた。

 ふわり、ふわり、
 ふわり、
 ふわりと。

(旦開野の名と姿はもはや使えぬ)

 ふと旦開野が馬加大記を見る。まるで、あなたもこちらへおいでになりませんかと誘うように。
 階下にある、隅田の水のように冷たい、眼。


*****


 袖が再び翻る一瞬、彼女の手が閃いたのが見えた者は果していただろうか。

 一人の若侍が放った悲鳴は直ぐに止んだ。しかし、その悲鳴で酔いが冷めたと思われるのも半数に満たなかった。血を吹き出させて倒れた彼は卜部季六が弑されたのと同様、喉笛を簪で一閃されたのだ。
 旦開野はきつく巻いた絢爛豪華な帯から隠していた刀をすらりと抜いた。酔ってはいたが、侍一人が倒れたのと、刀身がぎらぎらと光るのと両方を察した一人の男は、ろくに呂律も回らぬ唇を動かして必死に叫んだ。
「曲者だ。誰か、誰か、であえ!」
 最後まで叫び終わる前に、男はやはり喉に簪を突き立てられて抵抗もなしにどうと倒れた。男の傍に侍っていた三、四人の女の金切り声がようやく場にいたほとんどの人の目を覚ました。
「馬加一党、我が敵、覚悟!」
 叛意を露にして旦開野の手が再び閃き、一番奥の席に位置していた馬加大記の真横に簪が突き立った。彼はその簪の前に目を見開き息を止めた。
 彼女は刀を振るい、躊躇いもせずに襖に近い家来たちに次々と深手を負わせる。逃げ惑うだけの意識が残っている女たちにも容赦はせぬ。血に濡れた刀がまた血を迸らせる。
 呻き声はすぐに絶えるが、旦開野は衣服に飛び散った血を拭わず、次に殺す相手を定めて毅然とした様子を崩さぬままに襲いかかった。
 あっという間に、数年来人を斬ったことのなかった刀は、着物と人肉をまとめて切り裂き、断末魔を無理やりねじ伏せ、数十人もの血で赤く染まった。
 慌てて逃げようとした者は足元を違え、階下や、増水した隅田川に転落して大きな水音を立てたりした。
 旦開野の一世一代を賭けた、そして初めて行う大量殺戮は、宴に出席した人間を一人も生きて逃さず、対牛楼二階の畳は血の池となって濡れたのである。

 一際豪華な装いの、馬加の妻戸牧が宴席から逃げようとした。しかし奥に座っていたので出入口から出ることが叶わず、楼の外廊下に出るしかない。旦開野が目の前で男を斬った瞬間、彼女は金切り声を上げて足元をよろめかせた。
 旦開野が手を下すまでもなく、戸牧は気を失って楼の欄干を越えて転落する。
 悲鳴が響く楼上でも、硬いものが潰れる嫌な音ははっきりと聞こえ、旦開野は眉を顰めながらも給仕の女を一閃する。
 すると、この急場に似合わぬ、幼い子供の叫び声。
 かか様かか様と泣き叫ぶその声は、まだ十にもならない小さな娘だった。馬加の子である。母を呼ぶ娘を見て一瞬旦開野は躊躇ったが、娘の豪奢な装いを見て―――この無知な娘は嘗ての自分を差し置いてなんと甘美な幸せを享受していることか―――許すことが出来ず、やはり殺すことに決めた。
 旦開野は素早く刀を振り上げたが、泣く娘は些かも迷わない。もしかしたら自分のやっていることをわかってすらいなかったのかもしれぬ。彼女は母を追った。
 小さな娘は欄干を乗り越え、死んだ戸牧の砕けた体向けて空を飛んだ。
 ――――――再び何かがひしゃげる音。
 鞍弥吾は足を叩き斬って逃げる手段を奪ってから首を落した。この男には特に用はない。彼の首は欄干に括りつけた。

 やがて血と汗が混じった。

 ――――――後は。
 生き永らえている人影は一つしかない。

 最後に、未だ動くに動けぬその姿を見止め、酔いの醒めぬ彼の喉元に刀の切っ先を突きつける。馬加は喉から掠れた声を出して巨体をわなわなと震わせた。見る見るうちに顔が恐怖に歪む。抵抗は、ない。
 自らの手を汚さず狡猾に人を殺した男が危地に立たされたのがこの有態か。旦開野は些か失笑を覚えざるを得なかった。
 馬加の口が動いた。腹を括ったのか、不気味に笑いながら旦開野相手に口を利きだす。
「―――わしを殺してどうする。首を取って暗愚の自胤に晒すか。それもよかろう。然らばその身体、さぞ重宝されることよの。お前の一族、男は親兄弟まで取り立てられて万々歳か」
「勘違いするな」
 女の声ではない。悟って馬加は口を塞がれた。
 旦開野は冷たく語り続ける。まるで隅田の水を見たような気がした。
「…取り立てられる家族もわたしにはない。父も兄も姉も、わたしの未来すら、あなたは奪った。あなたの首は母の墓に供える」
「―――一体お前の父は」
「粟飯原胤度」
 旦開野は冷然と言い放つ。馬加大記は顔面を蒼白にしてその名を口の中で反芻した。
「……胤度の、子か…!」
「今は犬阪毛野胤智と名乗っている」
 旦開野もとい犬阪毛野が言い放った囁くような声は、更に冷酷さを増し、不思議と狂ったような熱を秘めていた。

 今をさること十六年の昔、馬加は千葉家の家老である粟飯原胤度を謀殺し、同籠山逸東太を走らせ、まんまと家老の座に居座った。粟飯原一族は正妻の稲城から長男夢之助、長女玉枕までもが揃って斬首にされ、ただ懐胎三年の身だった調布という妾だけは、血塊を身篭っているのだろうということで唯一在野に逃したのである。
 その少し後、調布が親戚を頼り犬阪という村で無事出産したという噂を聞きつけた馬加は、それが男の子供ならすぐさま殺そうと目論んだが、母子は犬阪村を既に発っており、杳として行方が知れなかったという経緯があった。

 ――――――その調布の子供が、生き延びて敵を討ちに来たか。
 全てがわかった途端、馬加の脳裏を粟飯原一族の姿が走馬灯のように駆け巡る。
 刀を喉下に突きつけられているのにも拘らず、馬加は大笑いした。最期を覚悟した者の爆笑である。毛野は不快そうに顔を歪めたが、白皙の頬に飛び散った血を拭いもせずに刀を構えたまま立っていた。
「呪う、呪うぞ、毛野胤智よ。貴様は皆々を殺した。四天王も、戸牧も鞍弥吾も、そう、鈴子もだ。七つにもならぬ鈴子もだぞ。我らが黙って殺されると思うな、粟飯原の子よ。死ぬる一族挙げて貴様を追う。追って、呪ってやる、呪ってや――――――」
 馬加の声は血反吐を吐くような音と閃いた刀で締めくくられた。更に衣服に飛び散った紅いものを見つめ、毛野は低い声で呟いた。

「――――――死んで永久に黙れ、下衆が」


*****


 男の首を目の前に晒し、毛野は暫しそれを眺めた。すると見慣れないものに段々と吐き気を催し、改めて血に塗れた自分の姿を思い出す。
「をだまきの散るやかなしな春の宵……か」
 大してよい出来とは思えなかったが、再び詠唱せずにはいられなかった。
(父上、母上、兄上、姉上)
(毛野はやりました。仇の一人を討ちました)
(毛野の為したことを喜んでくださいますか)
 毛野は遊興のための唄ばかり教えられてきたから、鎮魂歌は知らない。ただ一心に念じることで父母の霊に挨拶した。そうでもしなければ、死体の散乱するこの場にいることに耐えられない。
(わたしは父上の刀です)
(ただの道具として従順に在るのです)
 やっと毛野は顔を上げる。まだ嘔吐感が残っているため、馬加大記の首がやけに重く感じられた。
 血文字で、自分の存在を残す。
 ふらふらと殺戮の現場を出ようと、襖へ向かう。

 再び悲鳴が上がって意識を再び俗世へ引き戻した。
 血まみれのまま人首と刀を提げているところを、ちょうど来た女中に見られたのだ。毛野がようやく気付いたときには、女中は腰を抜かしてへたりこんだ。
 逃亡の邪魔立てをするからには生かしておけぬと毛野は刀を再び振り上げ、女中を脳天から切り裂いた。
 それが宴の前に話しかけてきたあの女中だと気付いたのは、その後暗がりの中に彼女の顔を確認してからである。

 ――――――逃げなければ。

 対牛楼の兵は多くを切り殺したが、石浜城に配備されている兵士は勿論ここの比ではない。首を提げている状態で突破するのは容易ではなかろう。
 それに、離れに暮らしている若侍を逃がしてやるとも約束している。彼は今か今かと自分を待ち受けているだろう。急がなければと毛野はやっとのことで冷静さを取り戻した。
 最初は楼から降りるのではなく、樹を飛び伝って離れに行くことを計画していたのだ。それを漸く思い出した毛野は、長い裾を短くまとめ、すぐさま部屋に戻り欄干に足をかけた。ちょうど鞍弥吾の首をかけた場所である。

 階下に臨む庭も幾つかの死体が折り重なり、静かな地獄絵図の様相を呈していた。だがそれらを見向きする余裕さえない。
 離れの位置はここ対牛楼より辰巳の方角にある。夜目に樹木への距離と仄かな灯火の光を確認し、舞姫の形をした復讐者は田楽の手馴れた技を披露して軽々と飛び上がった。

 空を蹴った折、地に横たわる母子の死体を見た。
 ああ、ふと鼓動が高鳴る。言葉を交わしたこともない幼い娘を思って、その姿に嘗ての自分を見て、自分の血塗れた手を握り締める度に。わたしはなんと取り返しのつかぬ事を成し遂げたのだろうと。
 だがあの娘はこうして死んだ方がまだ幸せだっただろうと自分に言い聞かせ、毛野は対牛楼を振り返りもせずに犬田小文吾の離れ座敷へと走った。

 毛野の運命が、この夜を境に本格的に回り始めた。




○歌意1

 をだまきの散るや悲しな春の宵
     悲しぶ朝はたれがためなる


 苧環が春の夜に散るように、わたしが切なく耐えられない朝を迎えるのは、一体誰の為でしょう。(あなた以外には有り得ません)


○歌意2

 をだまきの散るや愛(かな)しな春の宵
     悲しぶ朝はたれがためなる


 苧環(馬加)は(春の花なので)、春の終わり(権勢の没落)に散るのは(当たり前だが)非常に心惹かれる。(幼いわたしが母を失って)悲しく辛い朝を迎えるようになったのは、(母を苦しめた)他の誰でもない、あなたのせいなのですよ。




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2003/11/??

 完全に失くしたと思っていたデータを発掘したので再録しました。

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