「THE 八犬伝」シリーズにおける解脱の物語

* 女性の多義性を持たされた浜路
 新章の浜路姫(大塚の浜路とは分ける)には多数の死んだ女性の人格が乗り移り、本来の彼女の人格はかなり薄められている。彼女の持つ人
格は(1)大塚の浜路の魂(犬塚信乃を慕う少女)、(2)玉梓の魂(破壊を呼ぶ妖婦)、(3)伏姫の魂(聖母)、(4)浜路姫の計4つである。
 浜路姫は作中では里見義実の娘即ち里見家の姫である。その彼女によく似た大塚の浜路が彼女にとりつき(「浜路再臨」)、網干によって玉梓を宿らせられ(「犬士冥合」)、玉梓と相反する性質を持つ伏姫も彼女に宿る(「厭離穢土」)。この3つの魂は浜路姫の中で競合するが、玉梓・伏姫の子である八犬士が運命に打ち勝つことで浄化されていく。
 八犬士の中でも特に犬江親兵衛は、例え里見の姫であろうと、里見家に仇なす悪霊である玉梓の魂を持つ浜路姫を殺そうとする。しかし彼がカタルシスに遭遇した後、伏姫として現れた浜路姫を斬ることができず、その母性に引寄せられるようにして強靭な力を失い赤子に戻る。
 ここから読み取れる多重人格者浜路姫は、豊穣を司る女神なのだ。イザナミのように、天照大神のように、破壊と育成の両側面を併せ持つ女神なのだ。二人のグレート・マザー、そして不安と純心を持つ少女神――ペルセフォネを連想させるような浜路。これらが全て浜路姫の中に宿り消え(浜路姫は解放され)、最後に残ったのは浜路姫の人格のみとなる。
 では、浜路姫の真の人格とは何か。
 「欣求浄土」冒頭で、蟇田素藤が朱色の風車(本来は玉梓・伏姫の象徴だが、ここでは童心のイメージとして表現される)で浜路姫を慰めるシーンがある。ここで素藤と浜路姫(大塚の浜路ではない)は精神的に通じ合っており、夫婦となることが象徴されている。
 素藤との精神的結婚――めまぐるしく人格の変化する浜路姫の心の安住はここにあるのではないか。

* 犬塚信乃と浜路(浜路姫)
 生まれ育った大塚村で、二人は許嫁の間柄とされる。もともと慕い合っていた仲であるが、信乃にとっての浜路はある種の束縛であるように思える。なぜなら、信乃はその幼さゆえに恋情を知らず、また姉(兄)妹のように育ったことも影響して、浜路の一途な想いを受け止めることができないからである。
 新章第4話「浜路再臨」で示されるように、大塚の浜路とよく似た甲斐の浜路(浜路姫)と再会した信乃は、彼女を守りきることができない。逆に浜路が信乃を荘助の刀から守り、その姿を消すことになる。
 蟇田素藤との戦闘の中で、彼はようやく浜路姫(大塚の浜路を重ね合わせている)を守ることを決意する。しかし信乃は浜路を守ったのではない。元藤が浜路姫を守るために浜路姫を放棄したのだ。
 やがて浜路姫に宿った浜路・玉梓・伏姫の霊魂は彼女を離れ、浜路姫は解放される。しかしそこに信乃が守るべき浜路は既になく、素藤との精神的結婚をした浜路姫のみが残った。ゆえに信乃は浜路姫と結ばれることなく別れを告げたわけである(信乃と浜路の因縁からの解放)。
 信乃のもう一つの因縁である名刀村雨は、ラストシーンで彼の手から離れていく。泣きながら笑う信乃の表情は清々しくもあり、これもまた父の因縁から解放された証でもあろう。
 二つの因縁から解放されて自己を確立した信乃は、仲間と共に「運命を変える旅へ、一緒に(犬江親兵衛)」旅立っていく。この物語は主人公である信乃の解放による成長物語であるが、「欣求浄土」で因縁の全てが集結し、「厭離穢土」でそれらが解放・飛散していく様子が描かれる。

* 里見義実と蟇田素藤
 「所詮貴様も俺と同じ穴の狢よ」――奇しくも山下定包が死ぬ間際に義実に語った(「犬士冥合」)ように、蟇田素藤も義実の隠した野心を指摘する(「厭離穢土」)。義実もまた定包・素藤と同様、欲望の権化である「犬」に囚われている。
 義実と素藤では何が違ったのか。一つには、紅い橋に象徴されるように、二人の進んだ方向が正反対だった(一方は親兵衛、一方は玉梓)というのがある。そしてそれが象徴するものは、天意の自覚即ち導きの有無である。  結城の合戦を逃れ安房に流れ着いたとき、雲の切れ間を白龍と思い込んだ義実は、安房の地に理想郷を建設するという希望を持って国を得た。自分は天意によって導かれた仁君であり、安房の民は皆理想郷で安穏と暮らすべきであると彼は考えたのである。掲げる里見の旗は、古来より由緒のある源氏の旗印だ。そして彼は海岸を彷徨ううちに古びた兜を落としてしまう(「妖霊」)。
 一方、後に蟇田素藤となる少年は、戦乱の世を逃げ惑ううちに幻の紅い橋にたどり着く。橋桁の下に見えるのは自分が今まで逃れてきた戦場であり、橋の上には玉梓(反道徳)と親兵衛(道徳)の姿がある。そこでどこからか矢が射られたため(戦火の象徴)、彼は玉梓側によろめいてしまうのである。つまり、彼が山下定包(網干左母二郎)の手の内に逃げ込んだのは偶然であり、決して自分の意思ではなかった。そして安房に流れ着いた彼は、数年前に捨てられた義実の兜を拾うのである(「妖霊」)。
 惑う者であった彼は玉梓と山下定包に導かれたが、浜路姫と心を通わせることによって生きる道を微かに見出した。そこで彼は定包の宿る網干左母二郎を殺害し、自らの思うままに生きようとする。これが素藤の定包からの解放である。
 玉梓に寄った素藤は、紅い橋で袂を分かつことになった親兵衛に斬られることになるが、「理想に導かれる者」である義実・親兵衛は玉梓・伏姫によって力を奪われる(義実は浜路姫を玉梓と認識して殺そうとするが、誤って義成を殺してしまう)。親兵衛には解放の余地があったが、真に犬であり操られる者であった義実は我を忘れ、解放されないまま余生を過ごすことになる(「厭離穢土」)。

 以上、並べていけばきりがないほど、犬士やその周囲の人々は「解放」の洗礼を受けて生き延びたり死んだりしていく。解放・脱却――仏教的な世界観を含んだこの作品では「解脱」という言葉が適当かもしれない。作品の監督を務める安濃高志氏は、「この世は無慈悲で残酷であるとともに、神聖な美しさに満ちている」というユングの言葉を引いている。
 もともと勧善懲悪の物語として名高い「八犬伝」を元にしているだけに、このまとめ方は秀逸であろう。


2005/07/24


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