看板娘の憂鬱


 少し強い風が吹いたので、洗濯物を干していた宿屋の若い娘は振り回される髪の毛をやっとのことで押さえた。
 空気が澄んだ朝の洗濯物は、寒いけれどもとても心地良い。そろそろ巳の刻だろうか、洗濯物を全て吊るす作業を終え、娘は背伸びをして昇りきった空の太陽に視線をやり目を細めた。
 行徳の人間にとっては、暖かろうが寒かろうがその日の気分を左右する大きな要素にはならない。反物を売る老婆の声、寒風をものともせずにのしのしと闊歩する大柄の男たち、悪戯っ子たちとそれを追いかける両親の声が混ざり合い、町はいつも通り喧騒と活気に満ち溢れていた。
 店の前を近所に住む紺屋の女将が通る。元気よく挨拶をしたが、また風が吹いたので今度は着物の裾を押さえた。
 再び濡れた着物の方に振り返る。

「あれ……」

 沼藺は額を押さえる。
 先刻まで目の前にあった父の小袖が見当たらないのだ。あの強い風が吹く前までは干してあるのがわかっていたのに、と沼藺は鼻で息を一つ吐いた。
 ぐるりと見渡してみたが、ひとまず見えるところにはないようだ。おそらく通りに出てしまったのだろう。道のどこかに落ちてしまったなら、すぐに拾ってもう一度洗い直さなければいけない。
 沼藺は門からひょいと顔を出し、通りの左右を見渡した。
 風のまにまに漂う一端木綿のようなそれをすぐに見つけることができて彼女は一瞬安堵したが、人の多い通りなのでうかうかしているわけにはいかない。沼藺は駆け足で古那屋を出た。
 風に乗って空を舞う小袖を追いかけて小走りになる。
 足元への注意はおろそかになったが、この程度なら大丈夫だ。

 風邪が再び角度と強度を変えた。
 青い空を沼藺の予想以上に踊り狂っていた小袖は、天から地に向かって何か重い槌で叩かれたかのように急降下していくのがわかった。
 ああいけないと思ったときにはもう遅い。

 白い小袖は、通りを悠然と歩く体格の良い青年の頭上に落ちた。
 小袖を顔を隠される前に一瞬だけ見えた見覚えのある顔に、沼藺はあっと声を上げてしまう。
 青年は小袖に視界を奪われたので立ち止まったが、慌てる様子もないようだった。

「なんだいこいつは。この寒い中、濡れ衣なんか御免だぜ」

 彼が頭に覆い被さった布を掴んで取り払った時、大きな音が沼藺の耳にうち響いた。
 沼藺はその知り合いの男に向かって控えめに声をかけてみる。

「あのう、房八さん……?」
「おう。お前は小文吾の妹の、そうだお沼藺じゃないか。これはお前のか」

 青年―――山林房八は明るい様子で言い、小袖を沼藺にすぐ渡す。
 房八は端正な顔の持ち主で、勿論町の娘たちには好ましく思われているのが常である。縫いもその冷害にはなるまいが、自分を含めて、若い娘に対する送るしげしげと見るような視線がどことなく気に食わなかったからだろう、特に房八を町の青年の中で特別視する気はなかったのである。
 二人は、沼藺の実兄小文吾を仲立ちとする知り合いだ。その点で沼藺は町の娘たちから少しばかり羨まれる存在ではあったのだが。

「正しいことを言うと父のものなんだけど、」

 沼藺はきちんと訂正の前置きを付け加えてから話し出す。

「落ちる前にとってくれてすまないわね。ありがとう」
「俺は小文吾に用がある。お前の兄御は古那屋にいるかい」
「ええ、いますとも」

 房八は沼藺の返事を聞くと、そうかそれじゃと言って古那屋の敷地内にずかずかと大股で入っていく。沼藺は受け取った小袖を干さなければならず、その後にそそくさと続く形となった。
 門戸で房八は立ち止まり、大きな声で小文吾を呼んだ。

「小文吾、俺だ。市川の房八だ。言葉に甘えて来てみたんだが」
「何だ、房八か。まあ中に入んな」

 沼藺が仕事を終えて中に入ってきたのは、ちょうどそんなやり取りが交わされたときである。小文吾は少し暗い納戸の方から大きな体を現した。
 真昼間から飲む約束をしていたらしい。昼食は大変なことになりそうだと察知した沼藺は、苦笑気味の溜息をついてから厨房へ向かう。
 途中、客を見送るのに出てきた父親の文吾兵衛と鉢合わせ、彼女は房八の来訪を告げておいた。

「いやいや、若い者は元気の良すぎるくらいが丁度いい」
「そんなこと言ったってととさま、お酒が入ってまた角力を始めちゃったらどうするのよ? 毎度止めに入るあたしの身にもなってよ。ととさまったら笑ってるだけで助けてくれないんだから……」
「まあまあ。わかったわかった、今度はわしも止めるよ」

 本当に了承したものかどうか怪しい。沼藺は年に似合わぬ膨れっ面を文吾兵衛に見せた。


*****


 どすん、

 膨張した空気が激しく抜けたような、そんな音がした。食事の準備をしていた沼藺の嫌な予感は、彼女の胃の辺りをきりきりと痛ませる。
 ちょっとこれ頼みますねと下女に言い置き、沼藺は厨房を小走りで駆け抜ける。

 ばすん、

「ちょっと、あにさま、あにさまったら! 角力はやめて!」

 どしん!

 聞いちゃいない。
 極めつけに大きな音が家中を軋ませたので、沼藺は怯んだ。しかし身を竦ませている暇はない。

「あにさま! 房八さん!」

 納戸に入ると、沼藺はできる限りの大声を張り上げて二人の男を制止しようとする。
 酒の入った二人は――――――一度倒された房八はゆらりと身を起こし、小文吾は酔っているとはいえ力強く身構え――――――まだまだ続ける気でいるらしい、沼藺は軽い怒りを覚えて歯を食いしばった。
 沼藺は辺りを見渡す。よく気のつくのが唯一の取り柄、彼女は落ちていた安物の扇子を拾い上げた。
 それから、素早く腕を振り上げ―――

 ぱしん

 軽い音がして房八の頭が横に傾いた。「いてえ、角にぶつけた……」と房八は後頭部を片手で押さえる。小文吾も房八も揃って扇子の飛んできた方向へと向いた。

 一個の憤怒の形相が、ある。

「もう、いい加減にしなさいよっ!」

 怒鳴られる。

「まだ上にお客さんがいらっしゃるの! 図体の大きな男が暴れるなら外でやってよ! こうやって毎度後片付けをしなきゃならないあたしの苦労も考えて!」

 一息、つく。
 それから沼藺はもう一声大きく叫んだ。

「これ以上暴れるなら昼餉は作らないわよ!」

「……お沼藺、お前」
「何か?」

 少しばかり肩を竦めた小文吾を尻目に、房八が呆気に取られたような声を出したので沼藺はぎろりとそちらを向く。

「案外かわいいな」

 房八の言葉が発された瞬間、沼藺は表情を変えた。
 修羅か般若のような顔は見る見るうちに青と赤の間を走り、眉を吊り下げ目を白黒させた。
 顔色が赤に治まったかと思うと、腕を思い切り伸ばして届く範囲にあった房八の頬に―――

 びったーん!

「……!」(沼藺・怒りで言葉にならない)
「…………!!」(小文吾・妹の暴発が珍しいため声にならない)
「………………!!!」(房八・痛さで声にならない)

 ――――――そして沼藺は激情の赴くままに階段を駆け上がり、暫くその姿を見せなかったのである。

「…小文吾よ、俺は何かあいつの気分を損ねるようなことを言ったか?」
「さあ?」

 後には首を傾げる大男二人。
 房八は心底痛そうに頭と頬を擦った。


*****


 おい沼藺昼餉だぞと自分を呼ぶ声がしても、沼藺は楼上の一番奥の部屋に身も息も潜めていた。

(……一体何なの、あのひとは………)

 暗い部屋の中、一人で自分の身体を抱える。
 最初その手は頬に触れていたが、激しく熱を帯びているのに気付いて悔しくなったのでやめたのだ。
 軽く頭を振る。

(何でこんなに頭にくるのかしら)

 わけのわからない気持ちに苛ついたのか、また自分の両頬を引っ叩き、沼藺は再び眉を吊り上げるようにした。


***************

2004/01/31

 苦節一ヶ月のラブコメ、うちの沼藺と房八はやや特異なようで…

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