濱路塚


 額蔵は立ち竦んでいた。
 目の前に転がった男女の遺体が、急に射し込んだ月明かりで、不気味な陰影をつけて浮かび上がるようだった。
 深く嘆息する。
 なぜこんなことになったのかと額蔵は記憶を反芻しながら遺体に歩み寄った。
 あってはいけない刀がここにあり、それを持ち去られ、少女の命と望みと思いは潰えた。運命は明らかに、既に犬塚信乃の知らぬ、有り得ぬ方向へと突き進んでいる。刀を取り返せなかったことは、その運命に決定打を与えることになる。
 ひどく自分を不甲斐なく思った。
 少女の死に顔がそれを痛感させて、額蔵は心苦しかった。

 ――――――濱路さま。

 美しく切りそろえられた髪も、まさかこのように振り乱して死ぬことになるとは考えられなかっただろう。
 自分が梳いてさしあげたこともあった艶やかな髪も、二度と開くことのない悲しげで温かな瞳も、体温を失っていく白い肌と紅い唇も、今まで自分と信乃とで守ってきたものだった。

 ――――――この急場になって、自分は何一つ守れなかったのか。

 濱路も、信乃の刀も、信乃も。
 大切なものを、三つも。


*****


「額蔵は、本当は信乃兄様と仲が良いのでしょう」

 唐突にそう言われたのは、彼女が年末の大掃除を手伝っているときのことである。
 額蔵がぎょっとしたのは当然のことだ。今まで誰にも気づかれまいとしていた事実を三つ下の感受性豊かなお嬢様はそれと察したらしい。額蔵は寝首をかかれた気がした。
 額蔵は突然の腹芸が苦手な人間であるが、額面通りはいそうですと答えるわけにはいかなかった。
 冷や汗をかく。

「なぜ、そう思われるのですか」
「なぜって、本当に嫌い合っているようには見えないんですもの」
「……左様ですか?」
「わたしはそう思うの」

 違うかしら、と濱路は悪戯っぽく笑う。どうやら確信を持っているらしい。
 額蔵は困ったような顔をしてから、そのまますれ違って雑巾を濡らしに行く。
 濱路さまなら構わないや、と思ったのだ。

 濱路は優しい。
 人一倍寂しがり屋なのに、誰よりも優しい娘だと額蔵は知っていた。
 もしかしたらその優しさは寂しさから来るものかもしれなかったが、額蔵にとってはどちらでもよかった。
 彼女はどんな小さな、卑小なものにも優しくした。
 濱路は優しい。まるで菩薩だ。その事実が不思議と額蔵を満たした。信乃と自分の関係など、菩薩が知っていて当然だ。仏の知らないものはないのだから。

 ――――――俺は、濱路さまを守る。

 とっくの昔に決めていた。


*****


「信乃さん、信乃さん」

 錦の袋に包んだ村雨を帯びながら、使い慣れた箒をせっせと動かし枯葉を掃く犬塚信乃を庭に見つけ、額蔵は縁側から小声で彼を呼びかけた。
 信乃はじろりと額蔵を睨み、大儀そうに返事をした。勿論これも演技の一環である。

「今忙しい」
「それが、ばれてしまったようなんですよ」

 その言葉を言った途端、信乃の涼しげな眼元が更に険しくなる。箒を動かす腕も止まった。
 予想以上に信乃を神経質にさせてしまう言葉だったようだと額蔵は改めて濱路に対する驚嘆の念を覚えた。

「濱路さまにですけどね」
「え、濱路に?」
「ええ。気づかれているみたいです」
「ふむ、そうか……」

 信乃は箒を腕に抱いたまま、形の良い指を顎に当てて何か考え込む風だった。
 額蔵は信乃に向けて人の悪い笑みを浮かべながら板張りの廊下を襤褸雑巾でせっせと擦る。

「凄いと思いますよ、濱路さまは――――――」
「ああ、そうだ。濱路は鋭い」

 もしかしたら、と信乃はつけくわえて言う。

「それとも、伯母夫婦の計略とも考えられるかな……」
「まさか。今更気づいてやしませんし、濱路さまがそんな風に言われたとしてもそうするとは限らないでしょう」
「君もそう思うか」

 信乃は苦笑した。
 信乃は周囲の大人を信用しない嫌いがある。ある程度信を置けるのは、亡父とその少数の友人くらいのものかもしれない。その分大人の挙動には鋭い。自分に対する視線の善意悪意くらいならすぐ見抜ける。この環境に置かれているうちに自然と身につけてしまったようだから、あまり喜ばしいものではない。
 それは濱路も同様である。信乃と額蔵は、普段は猫っかわいがりにされている濱路が何か家にとって不都合なことを口走ったりすると、陰でこっそり伯父伯母に叩かれていることを知っている。それが日常的に続いているのだから、自覚如何はともかく、濱路はおそらく親すら信頼していないだろう。ただ、しおらしい性分だから従順なのだ。
 味方がいるのは嬉しいし心強いが、可哀想な娘だと信乃は額蔵に語った。
 額蔵も全く同意見である。

「信乃さん―――――」

 思いながら額蔵は襤褸雑巾を冷水に浸し、絞りながら信乃に話しかけた。
 なんだ、と信乃も箒を動かしながら応える。

「濱路さまを幸せにしてあげてくださいよ」
「………額蔵!」

 いつも落ち着いている信乃の口調が、このときばかりは裏返った。額蔵は小さく笑って雑巾の水滴を完全に落とす。
 うろたえている様子の信乃が実に愉快だ。

「伯父上の言葉を真に受けちゃいけない。祝言を本当に挙げるかはまだわからないだろう」
「でも、そうなりますよ」
「確信のない断言だな…」
「……そんな気がします。きっと濱路さまは信乃さんの奥方になります」
「だから……」
「顔、赤いですよ」

 指摘されて呆然と立ち尽くす信乃を横目に、ついに額蔵は笑いを堪えきれずに体を丸めた。

 ――――――濱路さまも、このひとも、守るのだ。

 決心した矢先、自分がとても強くなったような、なんだかこそばゆくておかしな気分が全身を駆け巡った。
 同時に寒風が吹いて、大きなくしゃみを一つしたら今度は信乃に笑われる。
 そのうち濱路が玄関の方向からひょっこりと顔を出し、にこりと笑いかけたのに二人は気づいた。


*****


 ――――――俺は一体何をした。
 ――――――濱路さまを守るために?

 濱路が死んで、村雨が得体の知れぬ男に奪われた。信乃の命ももはや危ない。
 思い出し改めて愕然としたため、歩みが止まった。
 濱路を蘇生させることができるなら、どんなことでもやる自信がある。刀を呑んで死んでも構わない。大塚に帰って蟇六村長にぶった切られてもいい。そのくらいのことはとっくに覚悟ができていた。
 だが、どうしても濱路が生き返ることはない。

 濱路さまが死んだ。
 濱路さまが死んだ。
 濱路さまが死んだ。

 額蔵は何者かに取り残されたような、薄ら寒い感覚を覚えた。
 群雲が、すう、と湧き出て月を隠した。あやかしが這い出てきそうな、純粋でどす黒い漆黒の色に世は包まれた。
 彼は気づいた。此の世から濱路という名の菩薩は消えたのだ。
 ああ、世界は斯様に冷えた場所だったか。


*****


 涙が、つう、と頬を伝って地面に滲みこんだ。
 それに気づいてから目を強く擦る。

『男が女を拐かし、女はそれに逆らって男に殺され、男は別の男に殺された。よってこれは情死ではない』

 濱路の血で綴られた血文字は、くしゃくしゃになった紙に踊って事件の様相を忠実に示した。
 これは濱路の名誉の証なのだ。示さなくてはならない証なのだ。この紙がなければ、きっと濱路は人々にあらぬ想像を催されてしまう。彼女の死後の名誉は自分が守らなくてはならなかった。

(俺はもう行かなくてはなりません。早く大塚に帰らなくちゃ)

 紙を傍の樹木に貼り付けた後、額蔵は頭を下げて強く念じた。暗い気持ちで、指の一本一本を確かめるようにして、手を合わせた。
 本当は行きたくない。信乃の所に行って、濱路の死を伝えて、今すぐにでも供養をしてさしあげたいのだ。額蔵は大塚の方に顔を向けたが、どうしても名残惜しくて、遺体の方に少しだけ向き直った。

 いつかもう一度来て、そのときに泣くのだ。そのときまで二度と泣くものか。
 強いというよりは意地の張った、頑なな決意だった。


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2003/12/29

網干左母二郎がまさにアウトオブ眼中状態


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